sam's diary - 日々のとりとめもないことをつらつらと

実名でやっているFacebookでは書き辛いことをここで吐きます

祖母の死

祖母の訃報に接した。

私の母方の祖母。大正生まれで恐らく95歳になると思う。大往生であり、とっくに覚悟は出来てはいたが、改めてこの日が来たかという気持ち。

実は20年程前、急激に衰えた時期があった。私が今、48歳なので、年齢差は47歳、つまり比較的若いおばあちゃんだった訳であり、かつ、私が子供の頃は、体型が亡くなった京塚昌子さんという女優さんみたいで、恰幅が良かったのに、その20年前に急激に痩せた。そして、見るからに衰えた感じになり、会いに行くのがとても辛かった。その時はもう1年も持たないだろうと覚悟していたが、それから20年経った。

比較的裕福な家であったこともあり、金払いが良く、幼くして父親と死別した私と姉の姉弟に対して経済的に大変良くしてくれた。

祖母のお母さん、つまり私の曾祖母も、姉と私の生まれるのを見ている。私も曾祖母の記憶が微かにある。曾祖母は恐らく75歳前後で亡くなっている。随分、おばあさんというイメージがあったが、そんな年齢だった。祖母は、その年齢からさらに20年生きたことになる。

関西にいる私の母と姉は母親の実家とほぼ断絶の状況にあり、携帯の番号も知らせているような関係ではなかったらく、ただ、かろうじて祖母には住所は知らせていたのだろう、母親の弟がそれを見つけたのか、祖母の訃報は電報で伝えられたようである。その電報を受け取り、姉から私に知らされた。その段階で既に通夜は終わっていて、その日の11時半から告別式という朝8時半に電話があり、告別式に参列することも出来なかった。とは言え、時間的に余裕があっても、行っていたかどうかは微妙ではあるが。

もちろん、祖母になんの恨みもない。祖母が亡くなったことはとても残念だし、生きている時にもっともっと話したかったという気持ちも強い。ただ、母親の実家である寺にはなんとなく敷居の高い思いがする。寺の現在の住職である、母親の弟である長男が悪い訳ではないのだが、とっつきにくい。その奥さんも同様。

母親の3人の弟のうち、次男はとんでもない奴で、私は金銭的に大変な損害を被った。祖母が最も可愛がった孫が私なら、祖母が最も可愛がった子供はその次男なので、祖母が生きている間は祖母を悲しませることはしたくないと思っていたが、本音を言うと、奴と会ったらぶん殴りたい。それくらいする権利は十分にある。ただまあ、寺で行われる告別式で、内輪のメンバーがそんなことをしても何の徳もないので、やらないとは思うが。

正直、僕にとって、母の兄弟で唯一心を許せるのは、一番下の弟のみ。そしてその奥さん。そんな訳で、寺に行っても、そそくさと帰ることになる。

祖母の話に戻すと、この祖母は大正時代のハイカラさんそのもので、父親の仕事の関係で上海で生まれ、上海の日本人租界で育ち、15歳前後で日本に帰国。その際に、長崎に帰国し、長崎の女学校に行った。その頃の女学校ってのはのんびりしていたらしく、よく女性校長に呼び出されて校長室で一緒にお茶を飲み、その際にはよく福砂屋のカステラを食べたそうだ。

私の子供の頃は、大阪の食道楽、京都の着道楽を両方実践しているような人で、子供の頃はよく、高いお店に連れて行ってもらった。まあ、寺の住職であった祖父の甲斐性でやっているのであるが、元々、寺に生まれたのは祖母の方で、祖父は福井の商家から小僧として修業に来て、そのまま継ぐことになったという経緯であるため、外の人には養子と思われ、実際には養子ではないが、それに近いものがあったため、祖母の方が自由にやっていた気がする。

若い頃は、祖母が元気なうちに一緒に上海に行きたいと思ったが、祖母が元気なうちにはその機会はなく、逆に私が上海によく出張でいくことになってからは、祖母にその体力は残っていなかった。

子供の頃、祖母が寺の本堂の片隅に置いてあったアップライトピアノを開いて、昔を思い出しながら弾いてくれた。もうすっかり忘れたと言いながら。今から思えばあればアメリカ合衆国の国歌であった。

今は安らかに眠って欲しい。今頃、16年前の夏に他界した祖父と会って、「散々、待たせよって」と叱られているかも知れない。