sam's diary - 日々のとりとめもないことをつらつらと

実名でやっているFacebookでは書き辛いことをここで吐きます

ウェブ上に残されたブログの行方

 このブログ以前にもいくつかのブログを書いてきた。ふと、一番最初に書いたブログを覗きに行ったら、なんと2003年8月から書いており、なんと673回も書いていた。ただ、そのブログは序の口で、最初のブログでの人間関係が少々複雑になったことから、それを放置したまま新しいブログをオープンした。それが2005年7月。それ以降は最初のブログはスローダウンしたんだけど、たまに思い出したように書いて、二つのブログは並行して走ることに。最初はまったくの別人格を演じようと思ったけど、最終的には同じようなブログになったわ。二つ目のブログも2011年の11月以降はほとんど開店休業状態だけど、1011もの日記をアップしていたよ。よく書いたもんだと思う。もちろん、このブログもそうだけど、基本的には書きたいことを書き、それが読まれることはあまり意識していない。とは言え、長く続けていると読んで下さる方もちらほらと出てきて、そういう方々が不快な思いをしないようにということも多少なりとも考えてしまいます。そういう配慮をした結果、僕の日記が面白くなったのか、面白くなくなったのかは分からないけど、まあ、そんなもん。ただ、極力、親友からの強いリクエストがあった場合を除き、リアルな友人、知人には敢えて教えないようにしている。

 つい最近、友達の友達が亡くなった。自殺だった。友達の友達と言っても、一回か二回、合コンで一緒になったことがある。いや、二回である。二回目に、「おお、久しぶり」と言われたことを記憶している。なので、友人未満だが単なる知人以上の関係であった。Facebookで「友達かも?」というリストには頻繁に登場したが、向こうもこちらも友達申請しなかった。こちらから申請しても承認されたかどうかは分からない。彼とはその程度の関係なのだが・・・。奴は僕にとって、ブログやSNSをやっていた、亡くなってしまった第一号。もちろん、有名人のケースは除く。彼の自殺の一報に接した時、彼のFacebookページに行ってみた。彼の死を、彼の友人が告知し、両親も早く亡くなり、自身も離婚していて家族のない彼を無縁仏にしないように、彼の友人があれこれと奔走していることが記されており、また、友人達が色々とお悔やみのメッセージを残していた。

 いや、Facebookのような実名制の場合、これが出来る。ただ、ブログの場合はどうなんだろうか。このブログの存在は家族も知らない。最初のブログ、次のブログ、さらには、やっていた私本人が忘れてしまっているブログすら複数ある。はず・・・。そんなブログは一体、どうなってしまうのだろうかと思う。もちろん、ブログのプラットフォームを提供している会社が清算されたりしたらなくなるのだろう。ただ、最初に始めたブログは、今は亡きLycosで、それが結局は楽天に統合され、楽天のブログとして存続することとなった。

 まあ、別にだからどうってこともないのだけど、仮に僕が病気で余命3カ月とか宣告されたら、間違いなく、過去のブログは読み返し、結構な確率で自身のPCに保存し直し、ブログは消去するような気がする。そうすることがあらゆる意味で平和な気がする。それほど、平和でない内容が多かった過去の日記。

 これから、もっと過激な内容にしようかなと思ったり、その逆も思ったり、なんともまとまりのない日記だわ、今日も。

定期券を買っちまったよ

 ここ数年、通勤用の定期券を買わないことに慣れてしまっていた。最大の理由は海外出張が多く、定期券を取るだけの元が取れないこと。また、泥酔した際に最も壊しやすいのが眼鏡、最も失くしやすいのが定期券入れwith定期券ということで、定期券は戻ってくることが多かったものの、定期券というものの購入によって、経済合理性を得るために取るリスクとしては大き過ぎると考えていたので、通勤定期の効用については極めて懐疑的であった。それに加え、ああだこうだと経路を考え、10円、20円とセコセコ節約するのが異常に好きな性格である。つまり、先日のように銀座で所用があるとなると、日本橋経由で東西線を使うべきか、渋谷経由で帰宅するべきかについて、電車賃を最適化するのが好きである。その場合も、渋谷に行くにしても、銀座からなら190円だけど、日比谷や新橋まで歩けば160円だから歩こうといったセコセコ計算もお手の物。そんなこんなで、ここ10年程は定期券を買わない期間の方が圧倒的に多かった。

 今回、消費税が上がるため、消費増税後の定期券のコピーを提出しなければ、改定後の定期代を支払わないとの会社からのお達しがあったため、やむなく1カ月定期を購入した。しかし、久しぶりの定期、意外に便利である。加えて、電車賃の最適化という「遊び」は、定期券を持たない時ほどではないにしても、そこそこ楽しめることが分かった。まあ、慣れないもんで、先日の泥酔時のように、電車賃セロ円を目論見ながら、結局、散々歩き回った挙句に、素直に帰るよりも高くついたなんてこともあるが、まあそれはご愛嬌。

 定期券を持たない時は、オートチャージsuicaを利用しているのだが、これは2,000円を切れば新たに2,000円オートチャージするようにしている。このオートチャージをこまめにすればするほど実質的にはJRに支払ったことになっている無駄な利息は少なく出来るのだが、2,000円なんたあっという間になくなるので、毎日のようにオートチャージし、これが精神衛生上、良くない。その点、定期券があるとそれはない。また、今は事実上の蟄居の身に等しいので、外出もあまりないので、通勤以外に電車賃を使う局面も極端に減った。結果的に、定期券って悪くないねと思い始めた。

 結局、通勤代申請に買った1カ月定期をさらに1カ月継続定期で延長し、ついに今日は3カ月定期を買っちまった。

 問題は、定期を持たない時にはやっていた遠い駅から30分掛けて歩いて帰宅するということをほとんどしなくなった。結果、運動不足である。

 それにしても、便利さは認める定期券だが、割引率を考えるとあんまり得ではないよね。別に、今やりたい訳ではないけど、いわゆるキセルというものは、今はまったく出来ない。入場記録なる代物が、不正乗車の可能性を大きく低下させた。と、思う。それはそれで良いのであるが、であれば、それで収益性が上がったとして、乗客に還元するべきなのではないのかと思う。ただ、運賃に反映する形で還元するとしたら、一度購入したら、乗ろうが乗るまいがどうでも良い定期券よりも、普通乗車券で還元する筈。とすると、余計に定期券の割引率は悪くなるような気もするが。

 なんだかんだでつらつらと書いてしまいました。もう眠いから寝よう。

どうしようもない内紛体質というか政争体質

 Facebookで書けない危ないことをここで書くと言うこのブログの趣旨からすると、ここで毒を吐きまくってスッキリするべきなんだろうが、その一方で、ブログで自分の会社の悪口や同僚、上司の罵詈雑言を書きまくって、それが会社にばれて、最終的には退職に追い込まれた友人を知っている。その女友達は、頭の回転も速いし、手も早い、有能な労働力であろうと、友達としての贔屓目もあるものの、確信しているが、その会社を辞めて以降、仕事には困っている。今は派遣社員として働いているが、紹介予定派遣という訳でもないので、正社員になる場合、別の会社を探さなければならない。あくまで彼女の一方的な言い分であるが、彼女は正社員がダラダラやる仕事を、その半分程度の時間でやるようである。でも、ダラダラ正社員の半分か3分の1程度の報酬でこき使われる。まったく理不尽な世界である。そういうのって、社会全体、というか日本経済全体にとって良くない。絶対に良くない。正社員はダラダラと遊んでいても制度に守られ、派遣社員契約社員はていよく使い捨て。企業の収益のためには派遣社員契約社員といった従業員が不可欠なことは理解するものの、正社員を活性化する工夫がないと、日本は社会主義国に成り下がってしまう。いや、社会主義国共産主義国でも今や資本主義的な概念を取り入れた経済活動をしている。したがって、毛沢東時代の中国やゴルバチョフ以前のソ連みたいな前時代的な社会主義国と言うべきかも知れない。

 前置きが長くなり過ぎたが、何が言いたいかというと、壁に耳あり、障子に目ありで、どこからどういう情報が流れるか知れたもんではない。社内の暇人がヒマに任せてネットサーフィンし、このブログを見つけて、これはこやつに違いないと継続ウォッチされるかも知れない。なので、最新の注意を払わなければならない。しかしながら、このどうしようもないバカ企業については一言言わんとおられん。

 数年間の勤務を通じて感じることは、この会社は「空気に支配される」というか、より正確にいうと、「風に支配される」部分が大きい気がする。そして、その風は頻繁に向きを変える。順風満帆で勢いよく進んでいた人物が、風向きが急に変わり、あり得ないような逆風にさらされる。通常は逆風でも、単に逆風にさらされるだけであるが、この会社の場合、その風向きの変化を敏感に察知した者が、順風満帆の際はコバンザメのようにくっついていたくせに、逆風になったとたん、船の中にせっせせっせと水を入れてきて、転覆を図る。誠に姑息である。そこに、同じ船に乗っているという意識はない。そういうことをすることで社業が停滞するなんてことも考えない。ただひたすら、傷付いたものは死ぬまで傷つけるということのみ。死んでしまったら一人いなくなるので、相対的に自分の地位が上がると思っている。ただ、大きな船は、沈没に向けてまっしぐらである。

 過去においても政争や内紛はしょっちゅうあった。近年はなくなったと聞いていた。政争を起こすほどのエネルギーもなくなったことを嘆く人もいたほど。ただ、この会社の政争体質、内紛体質は変わらないようだ。社業に向けてのエネルギーはすっかりなくなったように見える。ライバルとの差は開くばかり。トップラインの増加に向けて邁進するライバルに対し、ひたすら縮小均衡を目指す。減収でも増益だからいいだろうと言うが、本当に良いのか?そのうち、ライバルでもなくなってしまうだろう。

 このような体質は何故なのかと考えると、結局その理由は、オーナー経営者の経営方針の「ブレ」であろう。中途半端に方針を提示するものの、それに向かって動きだすと、すべてが順調でないとなにかケチをつけたがる。ケチをつけだすと、その動きを主導したものが周囲の攻撃にさらされる。そして、このブレを生むのが、経営者の資質もさることながら、どうしようもない外野がいっぱいいることであろう。経営者、特にオーナー経営者の場合、本来は一定の財界活動をするものであるが、このオーナー経営者がそれを嫌うため、財界での交友関係が極端に少ない。そもそも、極めて猜疑心の強い人間であるため、真の友達が出来ない。したがって、ごくごく少数の取り巻きしか信用しない。そして、そのごくごく少数の取り巻き、いわゆる外野に強く影響されることになる。その結果、方針がぶれる。コロコロ変わる。そして、社員は翻弄され、真面目に仕事をした人は去ることになる。

 自分は諸事情あり、もう少しいるけど、まあ、変な攻撃ネタを提供しないように気を付けよう。

泥酔万歳!

 昨日はとある方の送別会でした。

 今の会社はとんでもない方向に向かっていて、今まで良い方向に進めようと頑張ってきた人たちを排除したり、干したりする力が働いています。先週の木曜日は、排除されることが確定していた、個人的にはとてもお世話になった方の送別会で、今週の木曜日は、排除されることが決定的な方の送別会でした。

 先週の送別会は、山陰のとある酒造メーカーが経営している居酒屋とかで、飲み放題プランにはその酒造メーカーのお酒が5種類ほどあり、これがとても美味く、グビグビ。ただ、良い酒ってのは悪酔いしないもので、泥酔にはなりませんでした。

 今週の送別会は、いわゆる普通の居酒屋の飲み放題であり、安酒オンパレード。僕は最初はビール、次はハイボールを飲んだんだけど、周りがみんな芋焼酎のロックを飲んでいるので、自分も付き合うことに。しかも、デキャンタ芋焼酎をなみなみと入れて持ってきてくれるし、氷もたっぷりなので、飲むわ飲むわ。7時からの宴会がお開きは9時過ぎでしたが、泥酔状態に。

 同僚の一人の乗りの良い人と「銀座に行こう!」とタクシーを拾い、一路銀座へ。ところが、銀座でどの店にするかと相談していたら、その同僚が突然消える。完全にはぐれてしまい。少しの間探したけど、見つからず。携帯の番号を別の同僚に訊いたものの、結局見つからず、なんだか二次会に行く気持ちも萎えてしまって、帰宅することに。

 ここからが昨日の迷走の始まり。定期があるからと日本橋まで歩く予定が、日本橋駅だと思って改札を入ったら、どうも景色が違う。行先も違う。改札に戻ると、駅員が「ここは日本橋駅ではなく、日本橋室町駅です」とな。仕方ないから入場記録を消してもらい、一路日本橋駅へ。ただ、着かない。駅員に道順を教えてもらった筈が、着かない。ようやく着いたのは何故か東京駅だった。今から考えれば東京駅と大手町は近いから大手町に歩けば良いものを、歩き疲れたため、JRで帰宅することに。東京駅からは中央線に乗れば良い。そして乗った。筈が、ふと見ると上野駅が。中央線ではないことは確か。恐らく、山手線に乗ったのだろう。不思議。仕方ないから、神田まで戻り、今度こそ中央線に。そこからは無事に吉祥寺まで着いたけど、ここでまた問題発生。僕は定期を印字しているPASMOと通常、切符代わりに使うSUICAは別にしている。なので、このような場合、SUICAで入場し、出る時にSUICAPASMOの定期を見せて清算しなければならない。だが、二枚ともない。ポケットの中を散々探しまくって、ありました。二枚とも。それで清算したら、200円強。考えてみたら、銀座から日本橋まで切符を買っていたら165円で、とっくに帰宅していたろうに。

 吉祥寺から井の頭線に乗ったら、なんと最終でした。銀座には9時半過ぎにはいたのに、なんたること。時間は無駄にするわ、金はかかるわで最悪。

 ただまあ、銀座の飲み屋に行っていたら1~2万円は掛かっていた訳で、200円強で無駄遣いした~とへこんだけど、1~2万円セーブできたと考えるべき?しかも、泥酔したにも関わらず、朝には眼鏡もあったし、携帯もあったし、まあ良しとするか(笑)

 それにしても、ここ数日、このブログのアクセス数が伸びているのは一体何故???(笑)

日本の金融機関について思う

 最近、家探しをしている訳だけど、キャッシュで買う訳でもないので、家を買うことを住宅ローンはいわばセットである。それでもって、この住宅ローンについて金融機関とやり取りしていると、日本の金融機関、というか銀行って駄目だなぁとつくづく思う。その理由について今日は毒を吐きまくることにする。

 今回の住宅ローンの件の前に、数年前の経験について話したい。それは確か10年程前だったかと思う。当時、昨年12月に完済した住宅金融公庫のローンが20年ローンのうち10年が残り、少額の銀行ローンが30年ローンのうち20年が残っているという状況だった。住宅金融公庫は固定金利であり、銀行ローンは変動金利。この固定金利があり得ないほど高い水準にあったため、変動金利による借り換えを検討した。当時、外資系金融機関に勤務しており、収入は充分。ただ、結論から言えば借り換えは出来なかった。その理由が誠に納得がいかない。というのも、担保価値が充分でないからという理由で借り換えが出来なかったからである。

 私が負っていた住宅ローンのバックにある住宅は、阪神大震災の1年前に芦屋市に中古で購入したもの。阪神大震災での被害は免れたものの、周りのマンションがぼこぼこと倒壊し、その後の復興で、これまたぼこぼこ新しいマンションが建ったという状況であった。要は需給が完全に緩んだ。したがって私のマンションの価値は大きく下がってしまった。これが借り換えが謝絶された最大の理由である。

 しかしである。私は充分な返済能力があり、現に住宅金融公庫の返済は1度も滞ったことがなかった。結局、住宅金融公庫のローンは20年一度も滞らず、完済した。銀行の住宅ローンももちろん、現時点で20年半、約定通り支払っている。しかし、そういった、1)現時点での返済能力や2)過去の返済実績はまったく考慮されない。銀行が見るのは、3)担保価値のみである。その表現が適切でないなら、1)や2)より3)が圧倒的に重視される。これっておかしいだろ?その姿勢でお前らバブル経済とその崩壊を招いたのではないのか?バブルの崩壊によって、ようやく、日本の金融機関も担保絶対主義から支払能力を重視するようになったのではないのか?

 そして、現在である。当初、自宅のみならず、賃貸住宅を併設するプランを検討していた。仮に個人の住宅を5,000万円で購入するとすると、1DKを2戸併設するとして、7,500万円~8,000万円のローンが必要となる。しかしながら、2戸分の収入がオンされるから、収入はその分大きくなり、単純計算すると5,000万円借りれるなら、賃貸併用では8,000万円でも借りられる筈である。しかし、現実には今後併設する賃貸住宅の家賃は収入には計算されないとな。変なの。個人の住宅で5,000万円借りるより、賃貸併用で8,000万円借りる方が、リスクは低くなるのにね。

 さらに、おかしなことに、社歴が3年とかないと借りられないらしい。つまり、転職と住宅購入を同時に検討している場合、住宅購入を先にしないと、3年間待たなければならないことになる。これも誠に時代にそぐわない。だから、住宅購入のタイミングに合わせて転職のタイミングを遅らせたりということが必要なケースも出てくる。

 そんなこんなで考えたのが以下のこと。

1) 日本の金融機関は相も変わらず担保至上主義で個人の返済を考慮しない

2) 同じ会社にずーっとずーっと勤務し続ける人が転職をする人よりも信用があるとみなす古い体質。実際は転職歴のまったくない人は実はリスクが高いのにね

3) ベンチャー企業の取締役といった経歴は絶対的にマイナス

4) 住宅ローンの審査は、書類提出だけで済んでしまう。これから返済する人と面談することもない代わりに、くだらない質問を不動産販売会社経由で投げかけてくる。仮にも数千万円貸すなら、面接して、こやつは返済する気があるかどうかを確認するべきではないの?

5) 住宅ローン商品は金利の上下や変動固定の違いはあれ、金太郎飴であり、まったく個性もなんもない

 住宅ローンですらこんな感じでは日本の金融機関、というより都市銀行は沈没するね。まあ、私が就職した頃と比較すると、銀行は合併に次ぐ合併で、銀行の数は減り、各銀行の規模は遥かに大きくなった。規模の経済性が活きる業種であるから、経営の安全性は高まったのだろう。しかしながら、銀行としての競争力は、安全性のみならず収益性であるし、その点で考えれば競争力は恐ろしく低いことは明白。日本という市場の魅力があまりに低いため外資による参入が極端に少なく、結果的に競争が厳しくないので生き残れているが、そんなお粗末な金融機関に依存せざるを得ない日本国民は、私を含めて、つくづく可哀そうだと思う。

慶應野球部が6季ぶり34回目の優勝だって

ということだそうです。

イメージ的には6季より遥かに優勝しなかったような印象がある。6季ぶりということはちょうど3年前。つまり、阪神でイマイチ、ブレーク出来ていない伊藤隼太が2011年ドラフト、2012年入団だから、彼が4年生の時の春のシーズンということになる。伊藤君も母校に負けずに頑張って欲しいものである。因みに、3月に関西に帰省した際、中学、高校、大学の先輩と飲んだんだけど、その先輩が「金曜日は予定があるから、木曜日に」と言われ、その金曜日ってのは、伊藤君との飯だったようだ。先輩も、大学卒3年目だから、そろそろ一軍に定着して欲しいと話していたが、まだ定着してないようだ。

さて、慶應優勝のニュースに接して思い出したのは、自分が在学中の優勝。実際には4年間8シーズンで2シーズン優勝した。そう言えば、僕が1年の時は随分と弱く、名前は忘れたが4年生エースが一人気を吐いていたような。我々の同級生は鈴木哲という投手。確か、二浪して文学部に入学したという、根性の男で、投げ方に特徴があるのか、投げた後にいつも帽子がゆがんでいた記憶がある。彼は大学卒業時にプロからも注目されたのに、結局、プロは拒否し、ただ、アマチュアで野球を続けていたら西武に指名され、結局、プロ野球選手になった。でも、選手寿命は短かった。どうせプロになるなら、大学卒業時、彼の評価が最も高い時になっとけばよかったのにねと思ったもんだ。

僕らが1年生の時に弱かった話はしたが、その時の3年生や4年生の先輩が、「卒業までに提灯行列したいなぁ」と話していたことを記憶している。僕は1年だったから、その切実さがまったく理解できなかったが、3年、4年にもなるとそう思うものらしい。結局、僕が2年生の春のシーズンに、志村という投手が1年に入ったこともあり、優勝した。だから、僕が1年の時の3年生は、4年生として感慨深そうに提灯行列に参加していたことを記憶している。

僕も提灯行列に参加したが、提灯行列の間、加えて、三田のキャンパスに戻ってから、慶應の応援歌をたっぷり歌う。これでもかと歌う。でも、僕は若き血と塾歌すらろくろく歌えず、随分と恥ずかしい思いをし、同様な思いをした同級生が応援歌の収録されたレコードを買ったので、テープに録音してもらい、聴いた。おかげで、卒業時の謝恩会のようなパーティーでは歌うことが出来た。これがなかなか名曲が多いんだなぁ。特に好きだったのは「慶應ワルツ」と「幻の門」かな。

でも、一番印象に残っているのは、在学中2回の優勝に対して、1度、幻の優勝があり、それかな。確か、9回2死2,3塁で1点リード。つまり、あと一人抑えれば優勝のところで、逆転タイムリーを早稲田に打たれて、優勝を逃した。最悪である。

その後、自分にとっての二度目の優勝をした時、なんとなく忘れ物を取りに行った気がしたもんだ。

今日は慶應も優勝したし、阪神も連敗を止めたし、ソーダ水も買ってきたし、バーボンのソーダ割りで祝杯だっ!(笑)

最後に、ここんところ毎日、PVがあるのが不思議、数日に一回しかなかったのにね。もうちょっと真面目に書いてみようかな・・・。

AKB握手会の事件について、ふと考える

AKB48の川栄と入山が握手会でのこぎり男に切りかかられ、手術や入院加療まで必要な怪我を負ったらしい。大変お気の毒なことである。奇しくも、川栄と入山は、ナインティナインの番組であるめちゃイケの学力テストのビリ(川栄)と優等生(入山)ではないか。AKB48についてはまったく無知であり、漠然と「まゆゆ」、「こじはる」等を知るのみの僕にとって、数少ない、ちょっと知っているメンバーが被害にあったようだ。

しかし、こういうことが起こると過度に反応するのが日本という国。もっと凄いのがお隣の韓国であるが、日本も負けてはいない。今後、当分の間、握手会は開催されないであろう。多分1年くらい?そして、握手会復活の際は、それを大々的にPRした上で、コストの大半をそこで使ったんじゃねぇの?ってくらい、警備をありえないような厳重さで行い、AKB48ファンのおにいさんたちを辟易とさせるのであろう。

そもそも、アイドルとて生身の身体である。加えて、ファンは明らかにAKB48のメンバーより腕っ節の強いおにいちゃんたちである。今回はのこぎり野郎という、武器を所持していたものの、そんなもんちょっとした護身術の心得があれば素手でも投げ飛ばすことすらできる。したがって、握手会なんて芸能人とファンとの信頼関係で成り立っている訳なのである。

恐らく、今回、奇禍に遭ったメンバー以外も一種のトラウマのようになり、今後握手会を復活させる場合でも、どうしても「こいつ大丈夫だろうか?」的にオドオドと不安な気持ちでファンに接することになるに違いない。

ところで、こういうお兄ちゃんたちは、AKB48のメンバーのそういう不安な気持ちに敏感である。したがって、彼らとて、今まで程は握手会を楽しめないのではないかと思う。ということは、AKB48の誠にあくどい握手会商法も、これをきっかけに終焉に向かう可能性があるかと思っている。

個人的には誠によろしいと思う。中学生や高校生が、金もないのに握手券欲しさに、到底必要のない枚数のCDを購入したりするってのは、あり得ない。これは、ファンの、どうしてもお目当てのメンバーに触れたいというファン心理を悪用した誠に悪徳なビジネスである。

今、日本のテレビは、音楽番組のみならず、バラエティ番組もドラマも、AKB48が出演している確率が異常に高くなっている。もちろん、それぞれの番組において、エンターテイナーとして最高のパフォーマンスを披露してくれるのであれば文句をつける理由はないのだが、大抵の場合、上述の川栄のように、数年前、ヤクザとの交友で芸能界を引退した、彼が築き上げた「おバカキャラ」の座に就いているに過ぎず、誠に低俗である。

AKB48のような下手な歌手がミリオンヒットを連発するくらいだから、アナ雪の松たか子や、人間カラオケマシンのMay Jみたいな中途半端な歌手ですが礼賛されてしまう。

日本に本当のエンターテイメントが根付くのはもっともっと先、というか、永遠に根付かないかも知れない。

そう思った事件でした。